三大聖人説

REACT-TEXT: 32 2016年12月11日 /REACT-TEXT

世界三大聖人と呼ばれる三者である。

無論、共通する面もあるが、違う面もある。

それぞれの、三者を比較・対照する事項を、検討・整理・検証する。

キリストとブッダソクラテスは、書物を書かなかった(残さなかった)という共通点がある。

弟子たち(またはそれにあたる人たち)が、伝承している。

キリストやブッダは、確実にいたであろうに、史学的には、実在性は証明ができない。

何を持って、証明するのか?

それは、証拠である。二つ以上の証拠が、必要となる。

ソクラテスの場合、実在性は疑われない。

なぜかというと、プラトン、クセノポン、そして、アリストパネスという人物らの著作が、その年代に書かれたという確固たる証拠をもって、事実と判別できるからである。

複数の位相(アスペクト)が様々に浮かび上がるほど、その実態が、「確実にあること」を、または完全に実相を「捉えにくい」であろうことが、同時に姿を顕すだろう。

プラトンのレンズのソクラテスは、凸レンズ化して観ている。

クセノポンのソクラテスは、プラトンのと違い、風変わりだが徳のある人、というもので、道徳くさい、説教くさいおじさんというイメージと、さほど変わらない。

もっともクセノポンという弟子は、一方の優秀な弟子・プラトンに対して、とりあえずの弟子である、というような、過小評価どころか、全く正当な評価を下されていること自体が少ないようで、詳しく検証してみたいと思っている。

アリストパネスの喜劇は、アンフェアさを伴い、大コケした作品であることをありありと思いおこさせる。

この点において、整理しておくと、プラトンとクセノポンは、ソクラテスの弟子、または弟子とみなしておくべき人である(「ソクラテスは弟子取らなかった」とは、プラトンの「ソクラテスの弁明」語られている以上、その説を取らなければ、ソクラテスその人自身が行った言動の整合性が取れない、というのが、プラトンのジレンマであろう)。

つまり、語り継ぐものが弟子「のみ」であれば、実在が疑われたり、または、その師に対しての悪意などから、史実性がないように、いわゆる「闇に葬られる」ということを避けるということは、難しいのであろうと思う。

あえての批判的態度が、証拠として、ある場合、その証言するべき当人の実在性は、より確かに、強固なものとなるはずで、そこは、より高めていくべきなのだ。

それはつまり、ソクラテス以外の、世界三大聖人と呼ばれるキリスト、ブッダにおいても言えることなのである。

三者の中では、ソクラテス、そして彼と共に、そこに、アリストパネスの存在がものをいう。

また別の観点から、三者の比較・対照を試みてみよう。

弟子の離反者、裏切り者という点である。

イエス・キリストには、ユダが居て、ブッダにはダイダバッタがいる。

エスにおいては、教団の目的を成就させる前に、ユダに裏切られ、磔にかかる(ソクラテスが毒薬を飲んだように)。

ブッダにおいては、教団の活動から、ダイダバッタが離反し、ブッダに反逆を試みる(ソクラテスに対するアルキビアデスのように)。

どちらも、教団にいて、それなりの地位にいながら、目先の本来の目的からしては、割にあわない個人的な誘惑ゆえに、裏切るのである。

そして、それらの情報は、正しいのであろうが、証明が(少なくとも史実的には、あたらに証拠が出てくるまでは)できないのである。

立場により歴史は変わる。

「実はブッダこそ間違っており、ダイダバッタが正しかったのだ、そして、その正しいがために、反逆したのだ」と言った趣のダイダバッタ派の教団が、初期の小乗仏教にあったらしい、という記述をどこかで見たことがある。

古代ギリシア語の言語的な特性はともかく(それはヨーロッパ圏で継承されているとは、ラテン語登場以降、さほど思わない)、西洋において、あれだけ普遍的な価値を持つ言語は、今後とも出てこないだろう。

キリストとブッダが話した言葉は、完全には確定できないらしいが、候補がいくつかある。

どちらも、今では、話者がほとんどいないか、少ない。

そして、古代ギリシア語と、今のギリシア語は、また別物であるから、言語的な問題もある。

ブッダやキリストや、またはソクラテス当人が、言語的な記述をしなかったということは、

その言語が、恣意的に解釈されたり、本来の意味合いと違った捉え方をされることを避けたためだ、ということは言えるだろう。

そのため、もし、そのテキスト自体が、今のプラトン(そしてクセノポン)の著作のように、普及しきって、なおかつ全てが焼き払われないということがあれば、三者も考え直したかもしれない。

言語学上、ほぼすべての言語が、三世代で途絶えるという。

ゆえに、ある時点での記述が、読まれないか、たとえ、のちに読まれても、違う意味に変わってしまっている、なんてことがある。

それは、歴史上の認識も同様である。

つまるところ、先祖のことを知ることと同じことなのである。

ルーツを知ること。

これこそが重要で、その自身のルーツを、自分自身がいかに、良いものであればそれに似合うだけの、さらなる発展をば、試みる必要がある。

テキストに、テキスト自体の本懐というべき主張が常に時代を超え宿るであるかどうかは、

テクスト自体と、

テクスト自体を保存する方法とそのテキストの確保(テキスト自体の確定)

かつ、

それを的確に読み解ける読み手と、その読む手段(テキスト自体の解読)

が(信頼性を伴って)必要となる。

それは、歴史学や考古学、地理学、言語学のような(歴史言語学的な)知識を今のところ要する。

この宿命いうべき現状を打破する考え方が、言語学などで出てきている。

まず、普遍言語や生成文法というもので、すべての言語のルーツで、個別の言語は、その現れ方の違いに過ぎない、というものであり、その上で、

翻訳ソフトを開発する本の著者(つまり言語=形式=数理として捉えている人!)が、世界歴史言語学を提唱されている

 


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