おなまえ:Tsub
タイトル:Re: 外大図書館にての思索(個人的メモ)
投稿日時:2017/02/03 14:18
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放送大学の活用法
正規の学生ではなく、他大学において正規の学生をしつつ、 それとは別に単位修得することを主とする活用の仕方が今後放送大 学の有り様として浸透すると思われる。
私が在籍する中央大学通教では、単位換算が可能であるが、 それは、 中央大学通教が指定している単位と同じか同等の単位である場合、 認定される。
その上で言えば、自然科学等の領域の単位は、 ごくわずかしかなく、
たとえば、理系、医学系での単位と互換性は持てないことになる。
そのため、例を挙げると、千葉大学などの医学部三年時編入( 医学部三年時は医学部以外の学部が主な対象)から外れ、 受験資格を満たせないことになる。
しかし、放送大学の単位修得が、一般的に浸透と認知がされると、 単位の通用性、互換性、 換算や認定がよりスムーズに行くものでになることは想定できる。
すでに、千葉大学の工学部の方では、社会人の三年時編入に、 受講資格を持てる条件の一つに、放送大学の所定のコース、 単位修得が問われる。在学期間(これは、 単位修得のみのものや科目等履修生制度では、 お手上げなのであるが)も問われるが、これは、もし、 大学に在籍していなければ、2年間在籍すれば良い。
あるいは、大学入試が叶わない、高校を卒業していないものや、 あるいは中学を卒業していないものにも、 放送大学は開かれているので、早い話が、 高卒認定を受けられていないものでさえも、 大学教育の門は開かれているのである。
中学を卒業していない、という人はごくわずかであろうが、 それ自体も、年齢が15際以上であれば、 放送大学の学生として入学資格があったはずだと記憶しているので 、それで大学教育を受けることができうる条件、 要件は満たせることになる。
さらに、今後は、学習意欲の高い者は高校の時点から、 大学教育を先取りする形で履修する制度が放送大学にはある。
それを踏まえ先取りし、いざ大学に入学すると、( 換算が認定不可でなければ)その分が認定される。
ということは、日本の公的な教育制度上、飛び級や、 特別な入学試験が認められにくい状況下でも、 一定の年齢にさえ達すれば( つまり中学卒業時点から高校卒業までのあいだに)余力をつけ、 18歳時点からでのスタートであれ、 18を待たずした飛び級などに負けないような飛躍は期待できる。
日本の公的な教育機関の制度、システム自体、厳格化され、 十分な検討と蓄積がなされているものであるとみてよいであろう。
一方、海外の大学は、名門とされる大学はほとんど私学であり、 公的なものもあれど、日本ほどの入試において(ガリ勉的な) 厳密さはないように思われる。
というのは、大学入試のように、たとえば、 文科省が指定した教科書や学習指導要領の範囲の所定の額領域の大 学入学時点での、大学が要求する知識を問うべく出されたものの、 採点をし、大学入学の合否を問う、というものであるとは、 考えにくいからである。
他方、その場合、点数だけで見かけや印象だけに惑わされず、 その人の持つ素質を、数値化によって判断できるものであれば、 公平に判断できるということもあり、それが偏差値や、 一般的に認知されている機関での試験や資格などでの点数、 公的な機関による認定等が通用度を持つ、ということも、 一概的に悪いものではない。
試験は、紙切れ一枚で、丸ばつで判断できるからこそ公平なのだ、 という主張は数値化することが客観的に検証可能で公平性を損なわ ない状況で行われる場合、誠に正しい主張であるといえよう。
その価値観の最たるものが東大受験であると言い切ってしまってよ い。
ドラゴン桜、という漫画があり、 落ちこぼれ高校生が人生の一発逆転をかけ東京大学受験を目指すと いうものである。
これは、ある種のシンデレラストーリーであるが、実際に十分、 現実に応用、実現可能である上に、実は、 そうめずらしくない事例であるとさえ考えられる。
田舎娘の花売りが正しい発音やマナー、作法を覚え、 王族になるというような マイ・フェア・レディをそれぞれ、 状況に合わせたことばに入れ替えれば、 それはありとあらゆる形で言い換えられてきた典型的な物語の雛形 であると言って良いだろう。
しかし、それは一種のファンタジーであり、物語であり、 フィクションである、と断じてしまうにはあまりにも、 可能性を閉ざしてしまった、狭く辺境なのではないか。
一方で、一般に流布する価値観として、やはり、 通用性がある資格や試験における点数、 通用力のある学校や大学などの機関はやはりあり、 それを各々の意志や心情に従って、 無視できるのであればよいとしても、また、 その通用度が理由無き無根拠であれば取り合わずともよいとしても 、問題点を孕みつつも、しかし、やはり社会的に機能しうる理由、 通用する仕組み、根拠があるシステム、制度である以上、 活用する部分は大いに活用し、 是正すべき部分は大いに周囲の理解と正しい認識の浸透を試みた上 で是正 改革をしていく必要性は常に考慮されるべきであろう。
むろん、大学革命では、
主に大学という機関、を取り扱うのであり、
大学という機関がもたらす社会的な通用性
主に学歴と呼ばれるようなものや、
一般に学業として認識される活動の個々の個別の行為での検討 整理 問題点 解決策(例 通学過程の学生が地獄と称する単位修得の厳しさ)をみて、
現学生でのワイズな処世術(c浅田彰 構造と力 序)措定の学業の生きずまりを見るにつけ(所定の単位修得を、 本来あるべきの格闘なくして本質的な理解なくして、 所定の手続きとして充足する要件として、つまり、 この学歴が欲しい、この資格が欲しい、そのためにはこの所定の、 それまでの構成する一要素<たとえば単位>を取得を目指し、 それを取得するだけ取得すると次の所定のステップに上がる、 という階段を上がるような<ステージ>感覚)、また、 学生が今までの学生をやれるとしに限定されていた時代から変わり すべての学びたい人が年を関係なく大学巨いくにアクセスできる現 代にあって生涯学習という観点から、
また通学での課程以外から、通信制、 または定時制という学業家庭のあり方の是非を巡って検討してみた い。
STARS APPEAR AND SHADOWS ARE FALLING