おなまえ:Tsub
タイトル:Re: 外大図書館にての思索(個人的メモ)
投稿日時:2017/02/03 14:18
Eメール:
URL  :
ホスト名:pw126253036035.6.panda- world.ne.jp
ブラウザ:Mozilla/5.0 (iPhone; CPU iPhone OS 10_2_1 like Mac OS X) AppleWebKit/602.4.6 (KHTML, like Gecko) Version/10.0 Mobile/14D27 Safari/602.1


放送大学の活用法

正規の学生ではなく、他大学において正規の学生をしつつ、 それとは別に単位修得することを主とする活用の仕方が今後放送大 学の有り様として浸透すると思われる。

私が在籍する中央大学通教では、単位換算が可能であるが、 それは、 中央大学通教が指定している単位と同じか同等の単位である場合、 認定される。
その上で言えば、自然科学等の領域の単位は、 ごくわずかしかなく、
たとえば、理系、医学系での単位と互換性は持てないことになる。
そのため、例を挙げると、千葉大学などの医学部三年時編入( 医学部三年時は医学部以外の学部が主な対象)から外れ、 受験資格を満たせないことになる。
しかし、放送大学の単位修得が、一般的に浸透と認知がされると、 単位の通用性、互換性、 換算や認定がよりスムーズに行くものでになることは想定できる。
すでに、千葉大学の工学部の方では、社会人の三年時編入に、 受講資格を持てる条件の一つに、放送大学の所定のコース、 単位修得が問われる。在学期間(これは、 単位修得のみのものや科目等履修生制度では、 お手上げなのであるが)も問われるが、これは、もし、 大学に在籍していなければ、2年間在籍すれば良い。
あるいは、大学入試が叶わない、高校を卒業していないものや、 あるいは中学を卒業していないものにも、 放送大学は開かれているので、早い話が、 高卒認定を受けられていないものでさえも、 大学教育の門は開かれているのである。
中学を卒業していない、という人はごくわずかであろうが、 それ自体も、年齢が15際以上であれば、 放送大学の学生として入学資格があったはずだと記憶しているので 、それで大学教育を受けることができうる条件、 要件は満たせることになる。
さらに、今後は、学習意欲の高い者は高校の時点から、 大学教育を先取りする形で履修する制度が放送大学にはある。
それを踏まえ先取りし、いざ大学に入学すると、( 換算が認定不可でなければ)その分が認定される。
ということは、日本の公的な教育制度上、飛び級や、 特別な入学試験が認められにくい状況下でも、 一定の年齢にさえ達すれば( つまり中学卒業時点から高校卒業までのあいだに)余力をつけ、 18歳時点からでのスタートであれ、 18を待たずした飛び級などに負けないような飛躍は期待できる。

日本の公的な教育機関の制度、システム自体、厳格化され、 十分な検討と蓄積がなされているものであるとみてよいであろう。
一方、海外の大学は、名門とされる大学はほとんど私学であり、 公的なものもあれど、日本ほどの入試において(ガリ勉的な) 厳密さはないように思われる。
というのは、大学入試のように、たとえば、 文科省が指定した教科書や学習指導要領の範囲の所定の額領域の大 学入学時点での、大学が要求する知識を問うべく出されたものの、 採点をし、大学入学の合否を問う、というものであるとは、 考えにくいからである。
他方、その場合、点数だけで見かけや印象だけに惑わされず、 その人の持つ素質を、数値化によって判断できるものであれば、 公平に判断できるということもあり、それが偏差値や、 一般的に認知されている機関での試験や資格などでの点数、 公的な機関による認定等が通用度を持つ、ということも、 一概的に悪いものではない。
試験は、紙切れ一枚で、丸ばつで判断できるからこそ公平なのだ、 という主張は数値化することが客観的に検証可能で公平性を損なわ ない状況で行われる場合、誠に正しい主張であるといえよう。
その価値観の最たるものが東大受験であると言い切ってしまってよ い。
ドラゴン桜、という漫画があり、 落ちこぼれ高校生が人生の一発逆転をかけ東京大学受験を目指すと いうものである。
これは、ある種のシンデレラストーリーであるが、実際に十分、 現実に応用、実現可能である上に、実は、 そうめずらしくない事例であるとさえ考えられる。
田舎娘の花売りが正しい発音やマナー、作法を覚え、 王族になるというような マイ・フェア・レディをそれぞれ、 状況に合わせたことばに入れ替えれば、 それはありとあらゆる形で言い換えられてきた典型的な物語の雛形 であると言って良いだろう。
しかし、それは一種のファンタジーであり、物語であり、 フィクションである、と断じてしまうにはあまりにも、 可能性を閉ざしてしまった、狭く辺境なのではないか。
一方で、一般に流布する価値観として、やはり、 通用性がある資格や試験における点数、 通用力のある学校や大学などの機関はやはりあり、 それを各々の意志や心情に従って、 無視できるのであればよいとしても、また、 その通用度が理由無き無根拠であれば取り合わずともよいとしても 、問題点を孕みつつも、しかし、やはり社会的に機能しうる理由、 通用する仕組み、根拠があるシステム、制度である以上、 活用する部分は大いに活用し、 是正すべき部分は大いに周囲の理解と正しい認識の浸透を試みた上 で是正 改革をしていく必要性は常に考慮されるべきであろう。


むろん、大学革命では、
主に大学という機関、を取り扱うのであり、
大学という機関がもたらす社会的な通用性
主に学歴と呼ばれるようなものや、
一般に学業として認識される活動の個々の個別の行為での検討 整理 問題点 解決策(例 通学過程の学生が地獄と称する単位修得の厳しさ)をみて、
現学生でのワイズな処世術(c浅田彰 構造と力 序)措定の学業の生きずまりを見るにつけ(所定の単位修得を、 本来あるべきの格闘なくして本質的な理解なくして、 所定の手続きとして充足する要件として、つまり、 この学歴が欲しい、この資格が欲しい、そのためにはこの所定の、 それまでの構成する一要素<たとえば単位>を取得を目指し、 それを取得するだけ取得すると次の所定のステップに上がる、 という階段を上がるような<ステージ>感覚)、また、 学生が今までの学生をやれるとしに限定されていた時代から変わり すべての学びたい人が年を関係なく大学巨いくにアクセスできる現 代にあって生涯学習という観点から、
また通学での課程以外から、通信制、 または定時制という学業家庭のあり方の是非を巡って検討してみた い。


STARS APPEAR AND SHADOWS ARE FALLING


おなまえ:Tsub
タイトル:Re: 外大図書館にての思索(個人的メモ)
投稿日時:2017/02/03 14:17
Eメール:
URL  :
ホスト名:pw126253036035.6.panda- world.ne.jp
ブラウザ:Mozilla/5.0 (iPhone; CPU iPhone OS 10_2_1 like Mac OS X) AppleWebKit/602.4.6 (KHTML, like Gecko) Version/10.0 Mobile/14D27 Safari/602.1


インターネットで奇妙な交流を続けている人に、浅田彰という、 かつて八十年代の知性を象徴する人物がいる。
かれは構造と力でベストセラー作家となるが、一定の期間、 表立って行動したのちに、メディアの露出などは減ってくる。
(ちなみに私自身は、彼の本質的な性格は、 人間性云々という観点ではなく猛禽類性にあると考えていて、 その言動自体、つまり、たとえばシラけつつノリ、 ノリつつシラケるという身体感覚、 またそのキャッチーな言葉が一般にもたらされたときに、< シラけているふりしつつ実はノリノリ、 ノリノリにさせているつもりになりつつ実はシラけさせている>、 という状況を予期し得なかった点などは、 フクロウそのもののものだと確信している)
その浅田彰は京都大学をやめ、 京都造形芸術大学という京都の美術大学の大学院長をしている。
その浅田彰は、2012年の通信部門の入学式で、
通学過程の学生と通信過程の学生の重みは同じであり、 さらに言えば、社会との関わりの中で生涯かけて学ぶ点では、 通信教育過程の方に未来があると思っている、とさえ言っている。

通学過程の良さというのは、まさに通学、 学ぶために通う点にあるというその一点に収まると考えられるが、 やはり、同じ毎日通うであろう、夜間の大学と比較して、 違う点は学ぶ年代の差である。
つまり、おおよそ、ごく一部の例外を除いて( その例外は日増しに増えるであろうことは明らかであるが)、 高校を卒業した年代の学生が、おおよそ大学入試を通過し、 自身が合格した学校において、選択する。
複数の候補であれば、比較し、 選定した大学に入学手続きを了えるという点であることは間違いな いであろう。
さらにそれは、なにかしらの入学選考を経ていることは確かで、 おそらく大学入試を、 少なくとも書類選考を経ていない学生というのは存在しないと考え て良いであろう。
となると、この種の大学生という層は、
つまり、一般に大学生と認知されているであろう人たちは、
ごくわずかな例外を除き、 受験という制度をくぐり抜けてきた人たちであると言い切って良い 。
その受験というシステム自体、 それ構成するする要素の根拠自体には、 ある程度必然性があると言えるわけではある。
一方で、その受験を経て、大学に入り、 その大学の所定の過程を修了した、卒業した、という実績だけで、 社会的な通用度というのは、図りうるだけでも、 かなり大きいことは、おそらく、幼年を過ぎるころには( 教育を受け始める頃には)誰しもが分かることであろう。
そして、古今東西ありとあらゆる文明がそうであったように、 その年代において教育を受けているということが、 その後の人生に、また、その教育を受けた人がその他大勢の人、 社会、民族、はては文明まで変えうる、 大きな影響力があることは間違いない。
ある種の人間の生物的な本能が、 その学習したことを定着させるということに適していることが、 一つの要因であることは確かである。
しかし、今の時代に、生涯学習の必要性が叫ばれる時代にあって、 つまり、高度な文明の成熟の末に、生活のサイクルや習俗、 慣習や価値観が変わった末に、 一定の年齢を過ぎるともう学ぶという選択肢はないという状況では なくなった。
ゆえに、学びたい人がその気になれば、学べる、 学びの機会自体は、広がった( おそらく有史以来ここまでアクセス可能なのは初めての経験であろ う)。

さきにあげた、浅田彰の入学式でのスピーチは、若年の頃に、 学んだきりだけなのではなくて、たとえば、 花盛りのみの美ではなく、生きることそれ自体を美しく、 デザインしたい、という目的でアートやデザインを学ぶ、 ということが、通信制の良さとして語っていたのであるが、
わたしが、 そのスピーチから考えたことは、高校を卒業する年代が、 その頃に花盛りとして通学し、その学部や過程の終了をする、 というよりも、社会との関わり合いの中で、その学習意欲がわき、 興味が湧き、興味があるゆえに、 とことん掘り下げてみようというような、欲求が、つまり、 自己実現という観点からの欲求が芽生えるのではないか、 という良さ、であり、それは、その高校卒業年代においては、 おそらく、 追求しようとなかなかその年頃では思ってもできないような、 つよい意志 意欲でその興味関心の事柄についての本質的な理解を試みようとす るのではないかと思ったのである。
高校卒業年代というのは、その年代に達し、かつ、 大学教育を検討できる状況 学力や過程状況経済状況) などから大学入試を受けてみるかみないか、その一つの選択のば、 であり、機会である。
それは、受験を受けることができるかどうか、 という機会において、もしその選択が可能のであれば、 努力はもちろんのこと、投資や周囲の理解、 はたまた運がおおきくかかわり、 その入学試験を受けた学校の中で進路を決定する。
それは、能力の問題であることは否めないが、むしろその本質は、 機会がもたらされるかされないかの違いである。
ゆえに、たとえ、能力があっても( むしろここでやむにやまれず進学を断念した人の方が学力があり、 のちに学歴がなくても真の評価をされ、または、生涯学習や、 社会人になってさえも、断念した思いが強ければつよいほど、 学習意欲をもって、 自己実現として学生を再開することが多いのは、 もはや社会一般に認知されているはずである)、 叶わなかった人たち、については、一般的な大学受験という< 機会>は逃してしまっていることになる。
遅咲きの人たちもいる。 のちに才能を開花させる人たちもいるのである。
少なくとも、ある種の特別な人たちとしての、 社会人としての学生生活や、夜学、 通信教育過程に入学することが選択して残るくらいで、 一般に言われる学生には、 なかなかカテゴライズされにくいのである。
そのように、およそ、 特権的な地位としての大学生とされる人たちになるためには、 受験というものが必要であり、
一度受けれなかったそれで終わり、
それは、機会の配分として適切なのだろうか
それらの潜在能力の活性化の機会の阻害、 ある種の障害というものは、打破できないものなのだろうか。
それにおいて、もし、現在の制度自体に、 ある程度の正当性はあっても、必然性は、あるのだろうか。
もしあった場合にでも、どの観点からのもので、また、 その機会の分配などといった観点から、 その状況を改善しうる方策はないのだろうか。
私はあると思うし、それが打破できなければ、 全ての人に学びの場が提供でき得ない。
さらに言えは、学びへのアクセスが開かれているとは言えないし、 学びの機会や、学ぶことによる社会的な通用度(学歴など)や、 学んだことによる応用の度合いの差(つまり教育を受けて、 その教育ゆえに対処できる実務などの処理能力の差など)の、 能力自体の差、それに伴う格差というものはどんどん広がる。
これは最終的には、つまり大学教育のあり方ということは、 教育のあり方そのものを決定づける要素であるし、人間性、 人間開発の観点、人間らしさの観点、人間の尊厳という観点で、 著しく不公平なものであるという考えを結論づけたい。


今の時代、学ぶ領域は(浅田彰の美大でもあるように) 多様化しいてる。
今の時代、学ぶ年代も多様化しているし、なんとなれば、 高校という実質的な義務教育を経て、モラトリアム、 職業としての大学生(職業学生※ただし、 むしろほとんどが本人ではない人が対価を払う側) をやっているという年代が一番学びから( 職業柄それを事務的にこなすことは他よりあれど) 縁遠いのである。

大学革命では、その点についても考察する。

STARS APPEAR AND SHADOWS ARE FALLING

2016,12月中投稿控え(前後意図せぬ記載上の運用にて、加工風整形済み相当文章アリ

三年次編入が主要な進路である。
法学部を予定している。
東京の大学では、私大であれば八王子に、東京の国公立大では、 実質的に三年次編入試験はない(一橋大学にありはするが、 それは学内が対象)そして試験日が重複さえしなければ、 併願ができる。
国公立大で、三年次編入をしているものの、 法学部において募集していない場合、文学部や、 経済学部などの文系学科を受ける。
編入試験自体は、どの大学もおよそ共通している。
たとえば、学力を問う試験の形式や試験科目などは英語( 一つだけ尺度として揺るぎ無く測れるのはこれで、TOEIC, TOEFL,IBTなど)、 知識や経験を生かした社会科学全般に関しての論文などである。
なので、社会生活を営みつつ、 学問として専門の社会科学の領域にも通じつつ、そして、 それを社会全般にどう生かすか、 という着眼点をどこも問われるので、 それ自体の準備や対策自体は、特別な勉強ではなく、 いやましての勉学のみで、やっている勉強の内容自体は、 普段と変わらない。

そして、
広く影響を及ぼすための認知に効果的な、 東京の一つの国公立大学(つまり、 三年次編入を受け付けていない大学) と都心の有名私立大の一般入試を、記念受験として受験する。
それは、話題作りではないか、と言われれば、否定できない。 間違いなくそうだ。
ただ、進路として、そこに進むつもりは一切ない。 それは明言しておく。

今の大学(中央大学)自体には、無試験で( 出願理由さえ提出すれば)入学できた。
そのうえ、 今の大学でのいままでの三年間をトータルした学費全体でも、 一年間においての国公立の学費、それどころかその半額( つまり国公立大の夜間の学費) さえもまだ超えるか越えないかというほど、 リーズナブルな出費に抑えてある。
つまり、大学に入るためには、「 入学試験を受けなければいけない」であるとか、「 学費という出費で経済的に負担をかけてしまう」、 であるとかいうという心配や思い込みを、 自分自身の実体験を以って、 思い込みや負担を軽減することができると考えたのだ。

そして、大学に入るのであれば、まず、 夜間や通信であらねばならない。
それは、高校の時の経験が、それを痛感させた。
通学課程の学生と、(好待遇さとは反対に)志が違いすぎるのだ。
通学と、夜間や通信での学生の質の違いは、 もはや常識となるべきだ。
そして、進路の計画自体は、三年次編入ありきであったため、 また、学科(学部)としては経済か法学のどちらかに、そして、 夜間であれば経済、通信であれば法学にゆだねようと持ったのだ。
そして、なにより生活の上でも、精神的、身体的、 経済的な面でも、そうである。
今は、通信制であるが、まずは、夜間を受験した。
毎日通うような生活であれば、仕事もできるだけ、 生活も安定してくるだろうと思ったからだ。
その点において、
社会人経験が受験資格でもあったためか( 出願時において高校の校長の保証や就労予定・ 計画があれば受験自体はできた)、入学はかなわなかった。
なので、中央大学の通信制に入学した。
告白すると、中央大学でなくてもよかった。
ただ、三年次編入が本心である以上、三年次(当時は、 48単位だけでよかった)まで、そのステップアップする土台、 足場に過ぎない、という気持であった。
ないがしろにしているわけではなかったが、しかし、 足がかかりにすぎない大学だと思っていた。
「それは、仮面浪人でもない」と言い訳つけたところで、それは、 やはり不誠実だったのだ。
通信のほうの学友ができ、それを痛感した。
たしかに、確固たる理由で、 三年次編入を考えていたつもりだったが、ほかに、 卒業を目指して頑張っている人がいる以上、 それは不誠実ではないか。
なので、できるかできないかは、どうあれ、 卒業と同等の努力をしようではないか、と思ったのだ。
さらに言えば、48単位だけでよかった、三年次編入の志望校が、 私が受験する年度から62単位に引き上げられた。
関西の府の国立大学のその二校のみ、 その教育のレベルとは反対に、受験資格の単位が48単位と、 低かったのである。
東京大学一般入試する人よりも、学力は高いと評判であるし、 その府の名前がつく大学自体の一般入試よりも、 難易度が高いというのは、有名である。
ただ、一般入試の科目の多さや、範囲、そして、 出題の形式自体をくらべて、
また、三年次まで、他の大学で、 単位や受験に必要資格さえ取って編入試験を受ける労力などを考慮 しても、一般入試よりも、三年次編入のほうが、自分の性格、 学力、学習態度、興味などから言って、 割に合っている気がしたのだ。
そして、東京大学の入試自体、他の、一橋大学や、京都大学、 大阪大学や、北海道大学、東北大学などに比べて、 いちばん基本がわかっているかを問われる内容なのである。
だから、東大を差し置いて、三年次編入で、国公立を併願し、 東京では都心以外の私立大学を受け、そして、東京大学受験を、 全体の学力の水準向上のために、モチベーション、 インセンティブとして引き上げる。
一般入試という後追いを自分に仕向け、そして、 今の中央大学自体の卒業に向け着実に堅実にすすめる
そして、その堅実さ着実さが、 三年次編入において合格という評価になった場合は、 合格校においてもっても魅力的な大学へと駒を進めればいい。
そして、もし、そこで満足できなければ、もう一年繰り越して、 多くを投資し、リターンが多く、再チャレンジができる。
国公立大学の三年次編入では、 下手すると併願して合格するほうがもったいない。
なぜかというと、国公立大学を落ちると、 返還請求をすると受験費の半分以上戻ってくるからである。要は、 受からない場合、コストというのは、受験費と、 受験するときの滞在にまつわることのみであるからだ。
理論上それは、通信においての在籍期間中であれば、 繰り返しできる。
ただ、それであれば、まずもって、いまの学科、 学部を卒業してしまったほうが早いだろう。
なので、来年度に勝負をかけ、そして、来年度の結果次第で、 進路を確定させたい。
繰り越しはせず、素直に、卒業をめざし、実際し、そして、 院へと進める。院のほうは、決まっており、八王子で「哲学」 をやる。
人は皆、大学入試で、漠然とした将来の目標を、 大学という課程においてなんとなく補助的に規定してくれるだろう という期待を抱き、その意思決定の都度進路を決定していく。
私においては、かならずしもそうではなく、最初に、 卒業論文や院で何をやるか、 という終着点から決定していくことも、ありだと思っているのだ。

進路2016.12.26--所定だったもの控え--

おなまえ:aaaa
タイトル:Re: gaidai
投稿日時:2016/12/27 14:08
Eメール:
URL  :
ホスト名:ns1.nagasaki-gaigo.ac.jp
ブラウザ:Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; Trident/7.0; rv:11.0) like Gecko


改革を要する大学の制度・構造を、
①       学業での進路面で、中央大学法学部通信教育の課程を、卒業に向 けて(たとえ卒業ができないのであれ、それと同等の)努力を払う こと。(中央大学での課程の計画に詳しい情報を譲る)
②       三年次編入を受け付けている東京以外の地方国公立大、および、 私大では都心以外、とくに八王子の大学の三年次編入の併願(第一 志望が京都大学で、第二志望が大阪大学、かつての旧制高校にあた る学校や、ナンバースクール、旧帝大、その他、 各学部の領域において実績ある学校の学部;ただし、原則的に一大 学につき、一学部と限られるため、法学部を主とするが、 その他の学部のみの出願受付の場合、選定する)
③       東京の国公立大学、および東京の都心の私大の一般入試
の三つの学業での方向性を定める。
④       ただし、それら以外で、科目等履修生制度の充実と理解、社会一 般への浸透を望む。

京都大学への進学が確定するまで、
通信の在籍期間中にそのチャレンジは継続可能な機会として毎年訪 れる上に、
ほとんどコスト・労力・リスク・メンタル面としても負担が少なく 、
なおかつ通信制自体の卒業への最上の動機づけ(モチベーション、 インセンティブ)にもなる。
法学部のみでいえば中央大学は日本の最高の実績を誇るが、他の評 定、一般学力ではより高学力な大学もある。ゆえに、法学部での、 法律科目の実績(トレードオフ;かつグレードアップ)と、 一般学力の向上が、同等か(中央法のランクを落とさず)、 それ以上(上位互換;中央大学のランク向上にさえつながるような )の大学に絞られ、その点でいえば、京都大学は、( 実は中央大学に端を発している)滝川事件として世界的にみても有 名な、大学にまつわる象徴的な事件もあったため、尋ねる経路とし ては十分よい選択であるといえるであろう。
学費自体は高くなるが、逆にそれは、比較問題でいえば、通信制の 学費が安すぎる、という点にすぎない。
京都大学への進学が、初年度の編入試験において不合格であった場 合は、東京大学ではなく、一橋大学を受験する。ただし、進学が確 定した場合、東京大学を(進学するつもりはなく)受験する。
⑤       学業以外、生業での職種のブラッシュアップに努める。
アーティスト活動(具体的には、顕在性・浸透性から見て、デザイ ナーとミュージシャン)を行いつつ、たとえば、アーティストの作 品の法的保護、著作権や作者としての権利、および、 社会的な影響をかんがみた場合の責任意識から、働きつつ自分のペ ースで学べるという通信制大学の特性を生かしながら、 互いの活動を、相乗効果を期待できるように、絡め掛け合わせるよ うに、心がける。

この、学業以外での実際での社会的な活動、アーティスト活動を、 しつつ、③の一般入試で広く認知されるうる注目に値するほどの実 績を作りたい。
アーティスト活動、というとぼんやりしているし、そういわれても わからないことがほとんどであるが、逆にそういうものであると、 言っておく。
パソコンで、文章、音楽、図案、創造の幅が広がったように、真に 創作であるものは、根底は同じである、ということに立つ。
その作品の生命の躍動が、音楽性であり、そしてその設計がデザイ ン性、または、それらの存在感が芸術性ということにしておく。
デザインと、音楽性が大事で、デザインは、グラフィック(二次元 )、製品化(市場の次元への商品流通化)、ファッション(真の哲 学以外は、じつはすべてファッションを同一とする)のプロセスを 経ることが大事である。

デザイン分野:
これは、分類としてはソフトパワーであり、コンテンツであり、産 業・知的財産分野である。
(1)     シンプルなデザイン。
まず、デザインでは、図案(グラフィック)、そして製品(プロダ クツ)、そしてファッション(「流行」;おしゃれという意味合い ではない)である。
それから、チャート化した、デザイン案、それは、一般には匿名で 、かつ、その手のプロからは舌を巻かれるデザイン(緊急脱出のデ ザインのように)。また、たとえば世界の諸問題・課題( 今当たっているのは核兵器・原発問題)の誰しもがわかるデザイン (アップル製品のマニュアルのように、徹底的に整理、単純・ 素朴・シンプルにしてあるが、重要な事項はそぎ落としてないデザ イン)。チャート化、パンフレット化。
①グラフィック。図案。およそすべてのデザインにはこれが入り、
②、①を製品化する(プロダクト化)
③、その①,②のデザインの成果物は、(以外にも?)、ファッシ ョンである。
(2)     ロゴスの定義。
自作のCADや、また、基本的な用語を相互に変換しあう、ごく単 純・簡素な言語変換システムと、日本語入力システムの開発( にわにわにわにわにわとりがいる、をどう変換するか)。 言葉の定義(「にわとり」は「にわとり」か「にわ・とり」か「 に・わとり」か「にわと・り」か)、図形の定義(「にわとり」 という形態素を取り出し、「鳥」だとして、次に、「にわとり」 という鳥の固有の情報、たとえば形を伝達する際の図形の定義とは :それはたとえばそれがどう法的保護の対象となりうるのか知るた めにも;)、概念(にわとりとはなにか、そしてそのにわとりとい う語が何を指すのか)の定義、その変換。
それを、シンプルにデザインするための、建築家にとってのドラフ ターや設計器具のように、かつての著作家にとってのタイプライタ ーのように(またはマイクロソフト製のオフィス)な、補助的で、 かつ、本来の目的を達成しやすいような、道具作り。
(3)     相乗効果。
法律を学ぶ際の相乗効果(シナジー)を期待する要因(ファクター )としては、知的財産権があげられる。
東京五輪の最初のロゴ・エンブレム問題・また競技会場の騒動に代 表されるように、作家(アーティスト)が法的な知識と、 そもそもの権利や責任・義務、保護の対象について知っておくほう が望ましい。
そして、その法的な体系は、国ごとに違う(法観念の差異)。
デザインがいくらよく思っていたとしても、文化が違えば反応も違 う(民族的、文化的、社会的差異)。
そして、生産活動においての労働問題。社会政策から、社会学、労 働法。
あるいは、福祉。
(4)     (真の哲学以外は)すべて「ファッション」。
ファストファッションなど途上国での縫製作業に代表されるような 労働環境ではなく、真のデザイナー(たち)が、廃棄されるような 布から溶かし、精製した一本の糸からできた一枚の布から、 一切の民族的・文化的・社秋的な習慣や着回しから脱却・ 超越した、誰しもが感嘆する、どの彫刻や芸術品にも劣らない完成 度の世界服の到来は間もないと感じる。
最終的には飛び跳ねたり、透明になったり、色を変えたりする衣服 媒体になる。
おそらく、そう遠くない時期には、災害時や飢餓といった人道的、 地球規模の急務の課題にも、それは、商業活動ではなく、衣食住と いった最低限の生活にさえ支給されるようになるだろう。
(5)     2017年度ごろから、目に見えて始まりだす。
ただし、それは衣服、であって、ファッション(流行)ではない。
私は(おしゃれという意味での)ファッションは、創造者ではない 末端の人がやる趣味という遊戯の延長だと知っているからファッシ ョンにおいて無知の知を気取る。
ところが、自分が生きる時代において、さらに言えば無常観さえ漂 う中で、時代区分や、その時代にどういう実相があるかを、 真に科学的に、かつ生活に根差した観点で分析する点( 流行のトレンド)、そしてその中で生き生きと生活できる方法を発 想し提案することでいえば、「そこそこ」の勉強をしている。
その立場から言えば、相当な、ゆるぎない信念や信条をもって、そ してそれがのちにかたられるだけの確かなもの、時代を超えて定番 となりうるだけの哲学でないものは、実は、ファッションがすべて 、すべてファッション、ファッションこそ、深層では共通して意識 の地下水脈として根底に流れる。
いまは哲学をやる人間が真に取り組むのではなくほとんど気取りで あり、ごくわずかに、真にファッションを殉じる覚悟やる人間が、 ほとんど哲学を持ってやっている、逆転した状況に見えるのは、こ ういう状況である。
たかだか、ファッション、と足ら笑う人間に哲学があるかどうかは 、なんにせよ準じる覚悟で取り組まないと見極められない。
(6)     融通。融通無碍。
(2)であげたような、観念・概念・ロゴス(記述されたもの)を 変換・運用するシステム。


音楽分野:
(1)     寮歌、校歌、学生歌の歌唱。(希望としては加藤登紀子さんと歌 わせていただきたい)
(2)     自作自演。バディ・ホリーとクリケッツ、そして、彼らに影響さ れて成立し、音楽活動を本格化させたビートルズ、ボブ・ ディラン、ストーンズのように。
(3)     バディ・ホリー、ビートルズの版権問題に代表されるように、権 利所有者の明示等法的な適切な認知、あるいは労働にまつわる知識 (ホリーはユニオンにいた)。
(4)     2017年度中は、今後のファッションの天王山というべきもの であろうから、音楽のほうより、 むしろファッションを優先させる。
(5)     ただし、すべての創作物、表現は、根源的には同じであるから、 音楽活動のほうのやることとしては:
1.極めてシンプルなコード(≒デザイン)、たとえば、スリーコ ードのようなもの(ジョン・レノン曰く「自分はバディ・ホリーだ った!」また、ほかのバンドもクリケッツを目指していたし、自分 以外にスリーコードで美しい曲を書く人がホリー以外にほかに誰が いる?というようなことの述べている)。
2.およびそれのスコア・譜面化、レコーディング・録音・収録化 。
3.いまや音楽の流通サービスが発達し、それが世界規模で配信さ れる。
 なにも、レーベルにこだわる来なく、まずは、音源だけ作ってみて 、名義はともかく、権利とそして音楽家としての責任を果たせるか 、探る。(音楽よりもファッションを、というよりも、 どちらも創作・表現の根源は同一であって、2017年度中は、フ ァッションのほうをより打ち出す、というだけである)
それでもレーベルは決めている。
(6)     最後に、重要点だが、今のところ、耳が聞こえないでいるひとに 対しては表現者、作家としてどうするべきか。
耳が聞こえない人が、周りで音楽で感動しているのをみて、真空管 の中にいるような孤独(isolation)を感じさせてしまわ ないか。
または、目が見えない人に、どう、その映像を伝えられるだろうか 。
ひとつは、文字だけでその楽曲の良さを伝える、「プラトン的な記 述」のメディアを作ることである。プラトンの著作はとうぜん、 画像や映像がない時代のもので、文字だけで構成される。それは、 ある規則を定義しておけば、簡単な別の言語の変換が可能であるし 、文字、形態素単位で、定義する理由はそこにある。
つまり、たとえば、展示の形式で、「にわにわにわにわとりがいる 」というような、描写、記述を、伝達可能なものとする。そして、 コミュニケーションを図る。
テキストだけでの実況中継といえば、わかりやすいだろうか。
その点において、ファッションは、いまのところ目が見えない状態 であっても恩恵は受ける。そして、衣服ではなく、 ファッションにこそ、意味があることがある。与えられた生を生き 生きと謳歌するという点で。
バディ・ホリーはアメリカ人で、アングロサクソン民族であった。
だから、背広は、かれらの民族の服であるが、日本人である私のと って、演奏をする際に着る服としては、民族観などを世界規模で考 えるとふさわしくない。


STARS APPEAR AND SHADOWS ARE FALLING

今日の日記(2026/07/11

都内夜間中学通って長崎東高受験したい〜 平和大使やりたい
ああ〜国連本部にて発信とか…やり手……。、やりてぇー、、、 !!

 

 

↑(←⇒じつに長崎県オバマ期現役高校生的な内容のSNS的)